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本庄康伸先生回想    梅津 薫


「本庄康伸君のこと」 1 梅津 薫
・出会い
 彼と会ったのは昭和40年、東京の代々木ゼミナール芸大受験科である。
会ったといってもまだ知り合いにはなっていない。私は日常会話はするものの友人は出来なかったが、本庄君には清水君(東京)、伊藤君(山形)、相沢君(北海道)たちがいた。本庄君と初めて会話をしたのは芸大の最終試験が終わっての帰路、上野駅まで公園内を一緒に歩いたときである。お互いに「お前は合格するぞ」と口にしていた。それはお互いの強い確信であった。
・入学の頃
 昭和41年4月に芸大美術学部油画科に入学する。1年次は全員「油彩画の科学」で知られる寺田春弐先生が担当された。大学では必然的に代々木組である本庄君、新井君と行動することが多かったように思う。私は入学後、すぐに秋田県人寮に入寮した。本庄君は池袋近郊のアパート暮らしだったように思うが、私が誘うと日曜日などには、洗濯物を持って来るようになった。勿論男子寮の洗濯機を使うためである。そのため、寮生大会で「知らない人が洗濯している」という発言が出たりしたが、私は知らぬ顔をしていた。男子寮には食堂に卓球台があり、本庄君とはよくやった。彼は全般的にスポーツが得意だったように思う。彼とはスケート、卓球、ボーリング、ビリヤードなどよくやったものだが、彼は何にでも熱心であった。特に水泳は得意で沖に泳いでいったまま、1時間も帰ってこず、一緒に行った人々を心配させた。戻ってきて仲間に「疲れたら波間に浮いて休むんだ」と言って、びっくりさせたらしい。


「本庄康伸君のこと」 2 梅津 薫
 ・アルバイト
 金銭的に厳しい本庄君と私は常にアルバイトをしていた。本庄君が東京に出たときは、牛乳配達で住み込みで働いていたらしい。足腰の丈夫な本庄君でさえ、牛乳配達(当時はガラス瓶)は応えたらしい。
大学では二人とも育英会の奨学金を受け、そのほかにもアルバイトをした。画材の出費は大きい。東大近くの羊羹屋、食堂メニュウのロウサンプル屋等々。一番長かったのは喫茶店である。大学院に入ってからは、築地で野菜を各店に配送する仕事していたらしい。一度など急いだあまり、配送車を急カーブさせ、野菜をぶち撒けてしまった。でもヤッチャバの人たちは、優しく「そんなに急がなくても」と言ってくれたらしい。なんでも一所懸命やるところが本庄君らしい。

「本庄康伸君のこと」 3 梅津 薫
 
 ・作品
 彼のデッサンは、木炭の黒を使っているとは思えない輝くような白さの石膏像を描いた。硬質でどっしりとした形が特徴だった。
 初期の油彩画(授業の課題で構内風景を描く)は空間を意識した作品であったが、特に配色がが独特で、モダンな明るい画面が魅力だった。その後、ルドンの色彩に影響された作品も手がけたが、最終的に大きな影響を受けたのはフェルメールやフランチェスカ、ジオット、身近では峰見勝蔵(芸大同学年の2歳年上)だったように思う。後年、本庄君は「峰見さんの影響からやっと脱した」と飲みながら言ったことがある。

「本庄康伸君のこと」 4 梅津 薫
 
 彼は私が大学院を修了した年に、交代するように大学院に入学し、絵画組成研究室で前述の寺田先生に師事する。その授業「グリザイユ技法で裸婦を描く」においての本庄君の制作過程が当時の「別冊アトリエ」に写真入りで掲載された。シルバーホワイトとピーチブラックで画面を構築して、乾燥後その上に薄く溶いた色(油彩)を何度もグラッシ(グレージング)する古典的な技法である。その中で寺田先生は彼の制作がのびのびとした空間と人物の存在がソリッド(寺田先生の口癖)な塗りによって構築されていることで、完成が楽しみであると言うような意味合いの説明をされていた(本書を見るとH君となっているが、本人がこれは僕だよと言っていたので間違いない)。
 1970年、銀座あかね画廊(画廊のご主人が函館出身のあかねさん)で第1回グループ「45,46,47展」を開催(3年連続開催)。グループ名は清水(45年生まれ)梅津(46年生まれ)本庄(47年生まれ)からとったものである。2回展の時には丸紅の部長クラスの方が見えて、本庄君の作品を購入し、年間契約したいと申し込まれたらしいが断ったと聞いた。この頃の作品は北海道のユーカラ伝説をモチーフとして、詩的で暖かみのあるものだった。


「本庄康伸君のこと」 5 梅津 薫
 
 1974年から独立美術協会に出品を始める。作品を見ると数年ごとに変化が見られる。油彩やテンペラという材料の研究はもとより、自分なりのテーマや表現方法を模索し続けていた証である。
 そのエピソードを一つ。旭川の教育大で教鞭を執っていた頃で、まだ自宅にはアトリエが無いため、研究室で制作していた。ある時(独立展に近い頃か)、神田先生が本庄君の絵をみて、もうすぐ完成と思い、どうなったかと2,3日後に訪ねたら、画面は塗りツブされていたという。これは本庄康伸という人間の精神性を物語る、重要な逸話である。



「本庄康伸君のこと」 6  梅津 薫
 ・研究
 彼の絵画組成の研究は、制作と共に一貫していた。彼の頭脳は理数系である。話は飛ぶが囲碁や将棋が強かったのも頷ける。「町の碁会所で随分と強くなり、これ以上強くなると相手をしてくれる人がいなくなり、楽しめなくなるのでこれ以上は強くなるのをやめたんだ」と話してくれた。
 閑話休題。我々が学生時代に、寺田先生の「油彩画の科学」を教科書にしたほかに、ちょうどこの頃(1968
年大学3年時)「油彩画の技術」(グザヴィエ・ド・ラングレ著。黒江光彦訳)が刊行され、ブームとなった。日本における絵画技法書は、これ以前では岡鹿之助氏の「油彩画のマチーエール」ぐらいだろう。
 彼のこの方面の研究は、あくまでも自分の制作表現の範囲にとどまっていたように思う。前述の囲碁の話と同義である。しかし邦訳のない西洋の技法書で興味のある部分は自分で試訳してみたと、私にコピーを送ってくれた。テンペラ関係は殆ど本庄君に教わった。彼はファン・アイクやドイツ系の画家たちの技法にも強く興味を持っていたように思う。テンペラ下地に油彩で描き進め、またテンペラを重ね、更に油彩をかけ、重層的に完成に導く技法である。(推測だがこの絵具の重層過程でアクリル絵具は使用しなかったと思われる)。



「本庄康伸君のこと」 7 梅津 薫
 ・最後のテンペラ画
 大病が発覚してからは油彩とテンペラのミックス技法ではなく、テンペラのみで制作する方法に切り替えた。私が見舞いに行ったときには、個展用(ヒラマ画廊・旭川を予定していた)として石膏パネル数十枚に、下描きのアウトラインも描き終え、テンペラ絵具を手練りしてチューブに詰めて、後は塗るだけという状態を見せてくれた。きっちりとしたその仕事ぶりは、いかにも本庄君らしかった。テーマは函館の町並みや海岸、家族(夫婦)であった。
 私の目の前に色の付いていない未完の作品が2点ある(留理子さんから形見としていただいた)。下描きの線はきっちりとした直線に人物の曲線が対比している。数理的な線ではあるが、そこには今までよりも自由な遊び心も内在しているように見える。

作品紹介

本庄康伸遺作展実行委員会

〒071-1522
北海道上川郡東神楽町ひじり野北2条3丁目1−6 佐藤佳人方

TEL 0166-83-4409(TEL/FAX) tchgei01@hokkaido-c.ed.jp




大都市の近隣に発展する衛星都市の夜のイメージをグレーのモノクロームにまとめた作品で、黄色とピンクと僅かな茶色をアクセントに使用している。画面中央部の手前に身を屈める女性を明るい色調で描き、その横には黒っぽい色調の女性の後ろ姿を対置させた。背景にはサーチライトに照らし出されて夜空に広がる厚い雲やシルエットだけを見せる木立の黒い塊、散在する高層ビルなどを描き、近景の画面下部には窓枠を描いてその上に地球儀や植物を並べ、右端にはカーテンの一部をいれた。 衛星都市(130F.油絵)
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